黒田さんはもういない

私の実家は5階建てのマンションで、我が家は4階に入居していました。



ところで私の母ですが、平成6年に肝硬変で既に黄泉の国のひととなっています。


とても優しい母でしたが、一面、礼儀作法(ほんとかよw)等しつけに厳しいひとでした(信憑性無しw)


そんな中で、特に、特に、特に特に特にぃ!私が苦手とし、結局、今現在に至るまで直せ無かった、数多くwのしつけは、「時間を守る」という至極当たり前のことです。

今でも靴下並みに、時間に極めてルーズで、あ、最近は短い紺のソックスに流行りが変わりつつあるようですね………については、また稿を改めて言及したいと思います。




幼少の頃、我が家には「17時までには必ず帰宅すること」という厳しい決まりがありました。

どうなんでしょう?塾通いなどというものが一般的で無かった、40年ほど昔の話ですが、ならばごくごく普通の門限だったのでしょうか?

当時の友人諸兄は、もう少し門限が遅かったようにも記憶していますが……。





しかし、問題は門限の時間云々ではありませんでした。


先ほどからお話ししておりますように、とにかく時間にルーズだった私は、家まで全力で走って5分かかる公園で遊んでいて、ふと、帰らなきゃな、そろそろ……と時計台を見上げると、お約束どうり16じ57分。


全身を貫く恐怖に耐えながら、私の疾走は続きます。


今、この瞬間にこそ、グリニッジビレッジ天文台が爆破されることを切望しながら。




しかし!!



ああ、残念!

マンションの門を右折し、(おそらく横Gは3G以上!w)1階から4階まで(当時のマンションには、5階建て以上はエレベーター常設という法律がありませんでした)無呼吸で駆け上がってはみたものの、僅差、秒殺でタイムアウト!!107%の壁を越えられなかったのでした。



するうち、私の赤く上気した顔が、みるみるうちに蒼くなってゆきます。

閉塞進行!!w





「開けてよー、お母さん、開けてよー!!」

呼べど叫べど、母は堅く閉ざされたマンションのドアを開けてくれません。

つまり、折檻なわけですw



まだ、年端のゆかぬ私は、踊り場から大きく見える漆黒の夜空と、その場を照らす薄暗い常夜灯とを見比べ、いつか読んだ怪人20面相が今にも私を拐いに来るかもしれないwという怖るべき事態に直面しながら、ただ、できることと言えば、全力で泣き叫び、ひたすらひたすら母に許しを乞うことだけでした。

そのうち、夜空にうっすら影を射す、近所のお風呂屋さんの煙突までが20面相の手下に思えてくるのです。

しかしドアは開きません。



終わりだね、こりゃw









と!ガチャリ…


2時間も泣き叫び続けた頃でしょうか、お向かいのドアが開いたのです。


当時、お向かいには、黒田さんというご一家がお住まいでした。

そのご一家のお母様は大変優しい穏やかな方で、今でもその上品な佇まいは私の双眸に焼きついています。


「どうしたの、まことちゃん。お母さんがいないの?そんなに泣かなくていいのよ?」

黒田さんは、にっこり微笑んでくれるのでした。

まるで女神の如く……。









考えてみりゃ2時間もそこらも、ガキにギャアギャア表で泣きわめかれ続けたら、誰だってきれます。

それも一度や二度じゃない、嫌がらせか?というくらいしょっちゅうの出来事でしたしねw


だから、たぶん黒田さんは相当我が家に対してw頭に来ていたはずです。


だけど…それでも私に微笑みかけて、そして母を説得している黒田さんは、とてもとても優しく輝いていた……。











だけど私には、もう黒田さんはいません。


私がひとりぼっちで、この小さな部屋の中で、己の運命や血や数多くの失敗をどんなに悔やんでいても、もう二度と黒田さんは助けにドアを開けてくれることは無いのです。

未来永劫。











この駄文を読んでくださっている皆さま。ありがとうございます。


皆さまにも、きっと皆さまそれぞれの黒田さんがおられることでしょう。


大切にしてあげてください。


人間は絶対にひとりでは、生きてゆけません。


そんな当然のことに、愚かな私は今頃気づきました。

そしてもう手遅れです。



人間は、絶対にひとりでは生きてゆけません、絶対に。



皆さまそれぞれの黒田さんを大切に、互いに助けあってどうかお幸せになり、そして差し上げてください。



汝の隣人を愛せよ










イエスさまがおっしゃりたかったことは、存外、こんなことだったのかもしれません。